【1】の続き

 

 

「黒子、来週ストバスしようって話になったんだけど、お前もどう?」
降旗君に声をかけられる。
降旗君とボクは同じ大学に進学した。
なにかと気にかけてくれる心優しい友人だ。
だけど、
「すみません。ボクはいいです」
「…まだ会いたくねえの?」
「…すみません」
降旗君は何かしら集まりがあるとボクに声をかけてくれる。
それはほとんどが高校時代に出逢った先輩や友人とのもので、会う機会も少なくなってしまった今となっては、貴重な時間だった…前のボクには。
「火神や青峰達も来るって言ってたぞ」
ぴくりと肩が震える。
「冬休みかなんかで、しばらくこっち戻ってくるんだって。ほんとにいいのか?」
「…すみません」
顔をあげることができない。
降旗君はそっか、と呟くとそれ以上何も言わず、今度は遊ぼうなと去って行った。
降旗君の優しさが苦しい。
何度も断り続けているのに。
ボクはキミに、優しくしてもらえる資格なんてないのに。


ポツ、と顔に冷たい雫があたる。
雨が降り始めていた。
そう言えば天気予報で雨が降ると言っていたことを今更思い出し、傘を持っていたなかったボクは家路へと急いだ。


大学から3駅、駅から徒歩9分のファミリー向け単身向けマンション。
5階建てのマンションは珍しい内廊下で、入り口はオートロック式。
黄瀬君曰く、セキュリティのしっかりしたマンションらしい。
その最上階の角部屋、2LDKの間取り。
そこがボクと、黄瀬君の住処だ。
大学進学を機に、黄瀬君からの提案でボク達は同棲を始めた。
恋人同士だったボクはそのことになんの疑問も抱かなかったし、むしろとても嬉しかった。
だけど今となっては、後悔しか残らない。
あの時、一緒に住むと言わなければ、せめてこの苦しみも、少しは違ったのだろうか。


駅前にあるスーパーで買った材料を冷蔵庫に振り分け、ボクは手早く着替えを済ませると夕食作りにとりかかる。
今日はブリが安かったのと、余っていた大根があったからブリ大根にしよう。
みそ汁は昨日の残りがあるし、冷凍しておいたほうれん草でおひたしも作ろう。
あとは…と考えたところで、そう言えばオニオングラタンスープがもうなかったなと思い、メニューは決まった。
大根の皮をむきながら、手を付けられないであろう料理を作ることの虚しさがボクを襲う。
前はよく2人で交代で、あるいは一緒に料理して、テーブルに向かい合い黄瀬君の話を聞きながら食事をとっていたのに。
1年半前のあの日から、黄瀬君は料理をすることも、話をしてくれることもなくなった。
一緒にご飯を食べることも、今ではほとんどない。
作った料理も、食べてくれることはなくなった。
ただオニオングラタンスープだけは、残さず食べてくれた。
キミの手料理が食べたい、キミの話を聞きたいなんて、身勝手な考えが浮かんでは消えた。
黄瀬君を追い込んだのは、ボクなのに。






12畳もあるリビングに、ダイニングテーブルとコタツ、大型の液晶テレビ、2人がけのソファ、ワゴン、それにインテリアラックを詰め込んだ。
家具はどれも2人で選んだ物だ。
と言っても、ボクはあまりこだわりがなかったので、黄瀬君がいくつか選んでくれた中から、最終的に1つを決めただけだけど。
ソファは2人がけと言うより、1.5人がけのような小ささだ。
せっかく買うなら大きい方がいいのではないかと言ったら、”嫌っス。黒子っちとラブラブするんス”って却下された。
狭い方がよりくっつけるそうだ。
大きくてもくっつけばいいんじゃないですか、との言葉は飲み込んだ。
空色の布地のソファに合うようにと黄瀬君が選んだのは、黄色の星形クッション。
”オレと黒子っちっス”なんて嬉しそうに笑うから、萌え死ぬかと思った。

ソファがあるならコタツはいらなくないですか、とも言ったけど”いるっス!黒子っちとラブラブみかんあーんするんス!”と謎の答が返って来た。
なんでも、コタツに向かいあって座り、みかんの皮を剥いてあーんしてもらうのが夢だそうだ。
なるほどわかりません、との言葉は飲み込んだ。

黄瀬君がどこまでも、嬉しそうに笑うから。
キミが嬉しいと、ボクも嬉しいから。
それだけで、いいと思えたんだ。




いつの間にか眠ってしまっていたようだ。
幸せな、夢を見ていた気がする。
目の前のテーブルには、並べたままの2人分の夕食。
時刻は21時を過ぎており、おかずもスープもすでに冷め切っている。
黄瀬君はまだ帰っていないようだ。
遅くなると言っていたのに、待っているボクもバカだと思う。
黄瀬君の分にラップをかけ冷蔵庫にしまい、ボクは冷めた夕食を口にした。
同じおかずが、また明日のボクのお弁当になるのだろう。
こんなことにも、もう慣れた。



課題のレポートを終わらせ、お風呂も済ませた頃には23時を過ぎていた。
まもなく日付が変わろうとしている。
それでも黄瀬君が帰ってくることもなければ、メールが届くこともなかった。
事故にでも遭っていなければとの不安が頭をかすめた時、玄関を開ける音がした。
安堵とそして、ああ、悪夢の時間の始まりだ。


「も~涼太ってば飲み過ぎ!ほらしっかりしてよ~」
「え~?美香ちゃんが甘えさせてくれんじゃないんスか~」
「んもう、だったら早くベッド行こ」
「…お帰り、なさい」
美香ちゃん、と呼ばれた女性に抱えられながら、酔っぱらった黄瀬君が帰って来た。
「きゃっ!ビックリした、涼太、誰コイツ?」
「あは、起きてたんだ~ただいま黒子っち~。黒子っちはね~オレの同居人~」
「ああ噂の。ど~も~涼太の彼女の美香で~す」
「………どうも」
一瞬侮蔑の表情を見せたその女性は、黄瀬君の”同居人”との言葉を聞いた途端、甘い作り笑顔を向けて来た。
黄瀬君の連れてくる女性は、皆一様に同じ反応をするのだと、いい加減感心しないこともない。
それ以上に、どうしようもないぐるぐるした黒い思いが、ボクの中に渦巻いていた。
今はこの思いに飲まれている場合ではないと、必死で言葉を口にする。
「夕ご飯、なにか食べますか?」
「ん~?いつものお願い~あとで部屋に持って来て~」
「ね、涼太の部屋どこ?早くしよ~よ」
黄瀬君の部屋に2人が消えるのを見送り、2人の靴を整え、玄関の鍵をしめる。
そうして黄瀬君リクエストの”いつもの”…オニオングラタンスープを用意するのが、ボクに課せられた使命だ。
黄瀬君は、どんなに帰りが遅くなろうと必ずボクの作ったオニオングラタンスープだけは食べる。
ボクを見なくなっても、会話をすることもなくても、憎んでいるであろうボクの作ったそれだけは必ず食べてくれる。
残されることもなかった。
もはやオニオングラタンスープだけが黄瀬君とボクとをつなぐ一縷の糸に思えて、一年半前のあの日から、欠かすことはしなかった。


暖め直した2人分のグラタンスープにバケットとチーズをのせ、オーブンで焼く。
トレイに乗せ、黄瀬君の部屋に運んだ。
ボクはいつものように、床にトレイを置き、ドアをノックし声をかけた。
「黄瀬君、ここに置いておきますから」
そうして自分の部屋に戻ろうとしたボクに、ドアの向こうから声がかかる。
「持って来て」
ああ、悪夢はどこまで、ボクを引きずり込めば気が済むんだ。
だけどこんなことにも、もう慣れた。
「…わかりました」
ボクはドアノブを回し少し隙間をつくると、トレイを持ち、足でドアを開ける。
行儀が悪いとは思うけれど、少しでも黄瀬君達を見ないようにとボクは必死だった。
2人を見ないようにとボクは床に目を向ける。
脱ぎ散らかした洋服に、悪夢をまざまざと見せつけられ胸が締め付けられる。
くすくすと、女性の嘲笑が聞こえるが聞こえないフリ。
無言でベッドサイドのチェストにトレイを置き、使命は果たしたと急いで部屋を出ようとしたが、叶わなかった。
「こっち見なよ黒子っち」
「ヤダ~涼太ったら~」
いつもの軽い調子で声をかける黄瀬君と、拒絶の言葉を口にはするが喜色の色を乗せる女性の、それが。
どこまでも沈むボクの心とはあまりにもかけ離れており、どこか異空間にでも迷い込んだ感覚だ。
だけど、こんなこともにも、もう慣れた。
「………用が済んだので「…こっち見ろって言ってんだろ」」
そうだ、ボクには拒否することは許されない。
「っねぇ涼太、早く…っ」
「オレもそうしたいんスけど、黒子っちが見てくんないと」
「っふふ、いが~い、涼太見られるの好きだったんだ。でも私も、見られた方が燃えるかも」
「ね、黒子っち早く」
「………っ」
一刻も早く立ち去りたい、だけどもそれは許されない。
ボクが2人を見ない限り。
なら見ればいいんだ、一瞬だけでも、見れば、この異空間から解放され…。



バンッ!!

込み上げてくる吐き気を必死におさえ、トイレに駆け込む。
鍵をかけ、便器に勢いよく耐えていたものを吐き出した。
「っう…ッゲホ…っ」
もう出るものはなくなっても、吐き気は一向にとまってくれない。
目からは涙があふれ、苦しさに背を縮こまらせる。

「なにアレ~ちょー失礼なんだけど」
「そっスよね、見ただけで吐くなんて、おかしいっスよね」
「せっかく見せてあげたのに。ね、もうあんなやつ放っといて続きしよ」
聞こえてくるのは、ベッドのきしむ音。
あっあっと続く女性の嬌声。
悪夢はいつもおなじ姿で、声で、ボクを絶望にたたき落とす。


「っふ…っひぐ…っつ」
いつまでもこんなとこにはいたくない。
こんなとこで、泣くわけにはいかない。
這いずるようにトイレを出て、自室の扉を開ける。
トイレがボクの部屋の隣でよかったと、何度思ったかわからない。
中に入り、鍵をかけ、ベッドの布団に潜り込む。
そうして訪れる暗闇と静寂に、堪えていた感情が堰を切ったようにあふれ出す。

「っう…っつ……っぁ…っぁあああ!!!!」
黄瀬君の上にまたがる女性の姿。
幾度となく見せつけられた、黄瀬君と女性との、情事の姿。
それを見ることが、許すことが、ボクの罰。
お前ができないから、他の女性とするんだと。
苦しい。
苦しい。
苦しい
痛い、痛い、痛い、胸が、かきむしりたい程苦しい、痛い。
気が狂いそうだいっそ狂えてしまえたら。
助けて、助けて、助けて!

助けてなんておこがましい。
お前が招いた結果だろう?

「っふう…っぐ…っぁぁ」
一言一句覚えてる。

”オレとするの、気持ち悪いんスか?”
”吐く程…嫌なんスか?”
違うんです黄瀬君。
キミのことが大好きです。
キミが誰よりも大切です。
だけど、
”好きならできるでしょ”
セックスは、できないんです。

どうしても、できないんです。


「っぐ…っぁあああああああ!!!!」

ごめんなさい黄瀬君。
キミが欲しがっていたものを、あげられなくてごめんなさい。

ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。

セックスできなくて、ごめんなさい。

ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい………


 


携帯の時刻を確認すると、1時を過ぎていた。
ようやく落ち着いたボクは涙の跡はそのままに、もそもそと布団ごとドアの前に移動する。
ドアの向こうは静かだった。
だけど人の気配とかすかな話し声はするから、2人はまだ黄瀬君の部屋にいるのだろう。

黄瀬君は連れ込んだ女性を泊まらせることはなかった。
決して、女性を送りはしなかった。
そして同じ女性を連れてくることは、未だない。
黄瀬君は人なつこそうに見えて、誰より人を信用していない。
人前では眠らない。
心を許した者以外、驚く程無関心だ。
だから、その黄瀬君が女性を泊まらせると言うことは、彼女に心を許したと言うこと。
女性と出て行くと言うことは、タクシーが来るまで、彼女を心配し、見送ると言うこと。
…同じ女性を連れてくるということは、つまりそう言うことだ。

もし、黄瀬君が女性と出て行くなら。
もし、女性が泊まるなら。
それにいつでも気付けるよう、ドアの前がボクの定位置。
そうなったら、ボクは不要だ。
黄瀬君から終わりを告げられる前に、出て行こうと決めている。
死刑判決が下される前に、ボクは自ら断頭台に立つ。

今日の悪夢の時間は、いつ終わるのだろう。
…終わるだけ幸せなのだと、自分に言い聞かせる。
「ボクはまだ、大丈夫…」


やがて昨日より30分早く、終わりの音が聞こえた。
ボクはいつものように安堵のため息を吐き、ベッドに横になる。
安堵するなんてバカげている。
早く黄瀬君が救われるようにと願いながら、どこかでそれを望まない自分もいる。
この愚かさが、黄瀬君を追い込んだのだとなぜわからない。
わかっているから、ここにいる。
こんがらがった思考は、訪れる眠気に役割を終える。





そうして終わらない夜が今日も、かりそめの朝を迎えた。

 

 

 

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